【アラベスク】メニューへ戻る 第4章【男ゴコロ】目次へ 各章の簡単なあらすじへ 登場人物紹介の表示(別窓)

前のお話へ戻る 次のお話へ進む







【アラベスク】  第4章 男ゴコロ



第2節 銀梅花の香り [12]




 頭がグラグラして、地面が揺れているのではないかと思った。
 手をさし伸ばしたまま固まる聡を一瞥し、美鶴は出入り口へ向かって歩き出した。
 乱暴に鷲掴まれ、(まく)し上げられて乱れたTシャツの裾を手早く直す。そして、聡から数歩離れたところで立ち止まり、振り返った。
「お前というヤツがどういうヤツなのか、よくわかったよ」


 背筋が凍った。


 そんな目で、俺を見るのかっ!

 美鶴は身を翻し、教室を出た。
 声をかけることも、追いかけることもできない。
 世界が揺れて、今度こそ聡は膝をついた。
「あ……… っ」
 ガックリと両手をつき、その磨き上げられた床と向かい合う。ぼんやりと、自分の姿が映っている。

 俺はっ 俺はっ ―――――っ

 拳を握り締め、大きく振りかぶった。だが、床に映る自分を殴ることすらできない。
 違うっ 違うんだっ!
 大口を開ければそう叫びそうだ。だが、何がどう違うというのか?
 違うっ! 違うっ! 違うっ!
 俺はっ! こんなコトがしたかったワケじゃないっ!
 ゆっくりと拳をおろし、(うずくま)って額をつけた。

 俺はっ――――― 汚い

 これほど自分を嫌いになったことはない。
 身の内に、ドス黒い悪臭が充満しているかのよう。吐き気がした。むしろそのまま吐き出したいと思った。
 それでもきっと、出しきれない。
 この身を切り刻んで、ありとあらゆる場所から、卑しい自分を取り出したい。

 自分を殺してしまいたい――――

 激しい怒りと慙悔(ざんかい)が、聡を鞭打ち責めたてた。





 結局、明け方までを教室で過ごした。
 過ごしたという表現が的確かどうかはわからない。別に夜の教室が心地よかったワケではない。ただ、行くアテがなかったのだ。
 いずれは家へ戻らねばならないだろう。だが、飛び出してきた手前、どの(つら)をさげて母や義妹の待つ家へ戻ればいいのか?

 いや、そんなことよりも―――――

 押し込めても押し込めても湧き上がる後悔の念。聡は立ち上がる力すら失せていた。
 明け方も見回りの気配を感じ、再び掃除用具入れに身を隠す。
 もうそこに、銀梅花の香りはない。
 やがて夜が明ける。
 美鶴の壊した鍵の扉まで戻ったが、外から鍵がかけられていた。美鶴がかけて帰ったのだろう。
 ―――― 帰ったのだろうな。
 美鶴の帰る家には、きっと誰もいない。
 だが聡の帰る家には、母と緩がいる。
 我侭だとは思うが、今の自分には美鶴に与えられた環境がひどく羨ましく思えた。
 誰にも会いたくない。
 一階の一年生の教室の窓から外に出た。
 行くアテもなくふらふらと彷徨い、小さな公園へ迷い込んだ。
 白々と明るくなる空。今の聡には重く感じる。
 また()だるような一日が始まるのだろう。
 美鶴………
 ぐったりとブランコの一つに腰を下ろし、ふと見上げる先に人影を感じた。
 ゆらりゆらりと揺れる人影は小さく骨ばり、髪の毛も薄く白い。少し距離はあるが、顔に刻まれた皺の深さも見てとれる。
 だが揺れる身体に、弱々しさは感じない。
 細い手足を曲げて伸ばして、バランス良く身体を捻る。
 ――――― 太極拳か







あなたが現在お読みになっているのは、第4章【男ゴコロ】第2節【銀梅花の香り】です。
前のお話へ戻る 次のお話へ進む

【アラベスク】メニューへ戻る 第4章【男ゴコロ】目次へ 各章の簡単なあらすじへ 登場人物紹介の表示(別窓)